

2006年後半は、学校でのいじめと、これによる子どもの自殺という痛ましい出来事が問題になったね。
いじめは最近に始まったことではないし、日本だけの問題でもないけれど、メディアが取り上げると急に話題になる。
なぜ見抜けなかったのか、なぜ防げなかったのか、と責任追及する大人が多い。
けれど、いつも誰かがギリギリまで追いつめられることで成り立つ社会に生きているのは、子どもだけじゃない。
いじめの責任は僕たちがつくる社会全体にあるとも言える。
その一方で、いちど極限まで追いつめられたら、人が死を選ぶことは「仕方がない」と、あきらめている人が多いようにも見える。
僕にはこっちのほうが残念だ。神さまのいない世界に生きることの切なさを思う。
追いつめられたとき、目の前の現実がすべてで、他に選択肢がないならば、絶望を選ぶしかないと人は思うだろう。
けれど信仰を持つということは、「苦境→死」という、この世で仕方なく受け入れられているパターンではない別の受け止め方、
別の生き方ができるということ。目に見える現実を超えたところに真実なものがあると知ることだ。
これはちょっとした発想の転換とか、気持ちの切り替えなどとはまったく違う。
「空の鳥を見なさい。…あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」(マタイ6:26)
イエス・キリストのこの言葉を教わる教会学校の子どもたちは、なんと幸せだろう。
なぜ今生きているのかを知り、自分に一生の助け手がいることを知るのだから。
神さまなしで「いのちの大切さ」を語ることには限界があるし、ただ「がんばって」と呼びかけるのはむなしい。
キリストにある慰め、力、そして自由を、日本のクリスチャンは友人に、家族に、子どもたちに伝え続けてほしいと思う。

僕には、かわいい甥っ子がいる。
名前は璃音といって、音楽を全身全霊で愛している小学生だ。
彼は歩くことはできないし、ひとりで真っ直ぐ座れない。
僕らと同じような言葉を話すことができず、自分だけで食事をとることもできない。
ねそべってごろごろと動いて手や足でキーボードを叩き、ギターの上に頭をのせて弦の振動を感じている。
自分の頭を何かに打ちつけたりすることもある。
璃音の生きている世界のすべてを、僕らはつかみとることができない。
僕の姉は璃音と共に生きている。
僕は、璃音をとおして、また姉と璃音の姿をとおして、神さまからたくさんのことを教えてもらった気がする。
璃音が生まれて間もなく、“Little faithful”という曲を書いた。
“……グランドを思い切りかけまわったり 水平線に落ちてく夕陽をながめた
いつでもできるって思って置きわすれてた
すばらしいことでいっぱいの世界の向こう側で
自由なきみは何を見るの
自由な君は神を見るの
誰かを憎んでも 争っても どうしようもない 逃れようもない からだから
何やってんだと僕をどなりつけた君は 静かに光を浴びて笑ってる
きみがいるだけで 聞こえない声が聞こえてくる
そこにいるだけで 見えない何かが見えてくる
いつだって つながって 夜空をこえる…”
僕らにはいのちがあることで、生きていることで、どうしようもなく苦しいことがたくさんある。
でも璃音を見ていると、神さまの愛の神秘が、どうしようもなく弱い僕らに降り注がれていることがわかる。
間違えばかり繰り返している僕らの間に神さまがいるんだってことがわかる。
璃音は僕らに比べてできることは少ないかも知れないけど、僕らよりも近く神さまの手の中で抱きしめられている。
『琴音』というアルバムに、彼を寝かしつける時よく歌っていたメロディで書いた曲が入ってる。
“もしもいのちが君を 苦しめるのなら いつものように 二人で歌おう”